どうして先手のお救いと思えるのか

2014.09.28(Sun)

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先手

無条件のお救いといわれる意味がわかった時、御本願が今初めて呼びかけられたものではなく、ずっと昔から変わらず呼びかけられていたのだということがわかりました。

どうして過去のことまでそう思えるのかというと、何も妨げられることがない無碍光のお力によって、どのような自分の時でも救われることは出来たことがわかったからです。

私には何の条件もそろえることは出来ないけど、阿弥陀様の側では救うための用意は完成されていたからです。

阿弥陀様からみれば、いつのポイントの私でもまったく変わりありません。

私さえ気付いて望めば、いつでもお救いにすがることができたのです。
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コメント
最近よく思うのです。
始まりの無い始まりからずっと生死を繰り返しているということは、縁の無い人など無いのでは無いかと思うのですが、それが不思議なことに衆生も無量ですので縁のない人が無量にいるということです。
そして仏様とのご縁も同じで、たまたま私は不思議なことに阿弥陀様とのご縁があっただけで、ほかの仏様とのご縁は無かったと言うこと。永遠に生死を繰り返しているのにです。
それ以外は何一つ私にはわからないのです。
知恵がないのです、無明なのですね。
まあ、南無阿弥陀仏ひとつあれば十分ですけどね。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

とくよしみね 2014.10.02 23:15 編集
コメントありがとうございます。
ずっと昔から生死を繰り返してきたのだろうとは思うのですが、過去のことはわかるはずもなく、初めて生を受けていきなり阿弥陀様との縁をいただいたような気持ちもあります。
気がついたら私だったという生を過去何度も繰り返したのかなあと思うと不思議です。
ご本願を知らず一生を過ぎる方もある中で、たまたま生をうけた今生でたまたま御本願にあわせていただくなんて、本当に有り難い不思議なことだなあと思います。
ことり 2014.10.03 23:16 編集
あえて、よかったですね
どこの誰かもわかりませんが
お慈悲を聞いて喜ぶ人の話しは
自分の事の様にうれしいのが不思議ですね。
のり 2014.10.31 07:59 編集
コメントありがとうございます。

「ああ、そうだそうだ」とか「やっぱりそう思ってるんだね」とお互いの共通語を見つけられるのはとても面白いし感動があります。
かつてわからないと言い合っていた人達が信心について話されるのを聞くのもとても興味深いです。

ただ最近改めて感じているのは、共通するのは信心の部分だけであって、他が同じ思想や考え方に矯正されることはないのだなということです。
信後の聴聞が大事といえるところなのかもしれないし、ひょっとしたらそのことはあまり重要でないことなのかもしれない、とも思います。
ことり 2014.10.31 15:08 編集
お返事を頂きまして、ありがとうございます。
これからも、楽しみに拝見させていただきます。
南無阿弥陀仏
のり 2014.10.31 22:38 編集
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