何とかなれると思い、なりたかったのじゃ。

2010.01.05(Tue)

『本』 Comment(0)Trackback(0)
加茂仰順さんの「真宗の信心」より

「それは仰せを聞いて私の心がまちがいのないようになろうとするのではありません。本当のところは、まちがいのないお助けの聞こえたのが真宗の安心であります。」(p.90)

「婆さん、わかったぞ、ああ勿体ないことであった。ほんとにそうよ。地獄ゆきのこの者を堕としたまわぬお助けと聞くは、何座聞いてもまちがわぬ。いつのおさとしもその通りだ。しかるにいまこれほどあびるほどに聞きながら、小首かたげて思案したの婆さん。私は何とかなれると思い、なりたかったのじゃ。このしぶとい私を見抜いて、ながい間のおご苦労があったのじゃわい。」

「一部始終聞いておったぞ。とかく私たちは、ながい間聞いて、ぐらつく心がしっかりなったのが信心決定のように思うものじゃ。このもやもやがとれると思うて聞くわけだが、そりゃちがう。ご正意はな、決定の親心がいただかれたのじゃ。間違いのないお助けが聞こえたのが安心じゃ。」

「和上さま、ほんとうに私は横着者でありました。お叱り下されてありがとうございました。仕上げてゆこうとする私のこんじょうがあやまりでした。五念二利の仕上がったまちがいのない名号のお助けを聞かせてもらうままでございました。」(p.95-96)


お借りした本ですが、とても感銘を受けます。
心に響いた箇所に付箋を貼っていたのですが、付箋だらけになりました。

今の私にぴたっとくる言葉がたくさんあります。

間違いのない心になりたい。
なんともなれないと聞いてもいるしそうだと思っているのに、なんとかなりたいと思っている。
もやもやを晴らしたい。

それが違うというのは聞いて知っているけど、どうしてなのかわかりません。
自分の心を問題にしすぎているとも言われます。
何かわかりそうでもあり、それこそもやもやするのですが。。

信心決定に力が入りすぎてる、リラックスしてと言われるのですが、それがなかなか私には難しく思えてしまいます。

法に向かってない時はそれこそまったく心に何もひっかかっていないですが、法に向かえばハッキリしたいという心しかでてきません。
この気持ちだけで心がパンパンになって、後は何も入って来れそうにもありません。

と、書いてみて、自分でこれではいけないような気がしました。
こういうことを法に向いてないと言われてるのでしょうか。。。

信心云々を忘れてしまいたいです。
でも、忘れていても結局いつかは心がここに帰って来てしまう。

何度も何度もその繰り返しのような気がします。
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