今でしょ

2013.02.27(Wed)

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いつ救われるのか

最近よくテレビでみかける車のCMですが、いろんなことに応用できそうです。

私も「でも」「しかし」と言い訳してやってこなかったことがたくさんあります。

信心においても言い訳ばかりでした。

阿弥陀様に照らされている人とそうでない人がいるのではありません。

今は違うけど未来ではそうなる、というものではありません。

すべての人が昨日も今日も明日も照らされています。

いつどんな状態で救われてもおかしくないのです。




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コメント
はっはっはっ。面白いです。でもこんなにあからさまに「今でしょ」と迫られたら、チョットまって、となりません?
たかぼー 2013.03.05 13:37 編集
私なら間違いなくチョット待ってとなります。
ただ「でも」「しかし」が自分の心とかぶり共感します。

これは予備校と違って自分のやる気でどうにかするものではないですしねぇ。
なぜ今といえるのかを詳しく聞く必要がありそうです。


ことり 2013.03.06 18:14 編集
 大経に法蔵菩薩の修行の様子を描いた一段があり、そこに「和言愛語にして意(こころ)を先にして承問す。」という言葉があります。この意味は脚釈を見ると「相手の意志を先んじて知り、よく受け入れて教え導くこと」とあります。つまり、法蔵は相手の意に反して強引に人の心の中にずけずけと入り込むことをしないということですね。だから、如来となった法蔵に私を救いたいという願心があっても、如来は私がそれに気づくまで待ち続けながら、我の願心を聞いてくれよと声なき叫びを発し続けている、ということです。それに気づいて如来の願心を受け容れた私を如来は瞬時に摂取し、捨て給うことがないのですね。

 聞けばいつも救うのおすくいを、いつも聞かずに流転の身。いまでこそ如来の心を聞く念仏の声。バイたかぼー
たかぼー 2013.03.07 14:01 編集
脚釈→脚注の間違いです。
たかぼー 2013.03.07 14:03 編集
どこまでも相手の心に沿ったままなんですね。
仏様の慈悲はどこまでも大きいなあと思いました。
ちょっと話して聞く耳のない相手にすぐムカムカする私は小慈小悲もありません。「そこまでする縁も義理もないしっ」とすぐにあきらめます。無縁の慈悲でなくては私ももれていたのに、傲慢なことです。

自分の反省になってしまいました。
ことり 2013.03.08 10:38 編集
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