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到達した感の続き

2012.04.01(Sun)

『未分類』 Comment(2)Trackback(0)
ぶらぶら


もう少し自分の感覚を細かく砕いて言葉にしてみます。

下がない、というのは「これが全てとわかった、知るべきものを知った、そして自分もその中にいる」という感覚です。

五体投地して「ここなんだよ、ここがわかったんだよ、ここにいればいいんだよ」といいたい気持ちです。

阿弥陀様の言われている範囲、誓われてる本気度が知らされた(こんな書き方でよいのだろうか)、そして漏れる人がいないことがわかった、だから自分も救われているとわかった安堵感です。

「お重を持つときは一番下から」なので、どの場所にいても自分も含まれているのです。


私はお救いを考えている時、自分の心をさぐっていくような下にもぐっていくような感覚だったのかもしれません。

だから底に足がついた、到達した、という気持ちなのだと思います。

特に真宗について言われたのではないでしょうが、17条憲法の「四生の終帰、万国の極宗」という言葉もぴったりきて、みんなが最終的に来るべきところ、依るべきところに自分も到達したような気持ちなのです。



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コメント
ことりさんのいう、「これ以上、下がない。」ということの意味、よく分かりました。「ここなんだよ、ここがわかったんだよ、ここにいればいいんだよ」といいたい気持ち、まったく同感です。また、たかぼーの信心の相を上手に絵にしていただき、誠にありがとうございました。ご同行の方には余計なことかも知れませんが、絵の意味内容について少しばかりコメントすると、たかぼーが本願の綱につるされている状態は今のことであり、ないし、死に直面するときの状態であります。その足下は、生死流転の苦界であります。手足をぶらぶらさせているのは自分でつかんでいた自力は何の役にも立たないこと、綱につられているのは自分の意思とは無関係に阿弥陀如来に任せっきりになっている状態のこと、です。だから、無駄に力が入りませんし、無駄に力をつかう気持ちにもなりません。任せきりとは、らくちん、らくちん。
たかぼー 2012.04.04 10:42 編集
わかっていただけてとてもうれしいです^^
こちらでは何もできない、だから任せるしかないし、任せられるのですね。
何かしないといけないと思っていた心はなくなりました。私の気持ちとは無関係なことであり、地獄極楽など、自分の意思でどうこうできることではありませんでした。よくよく考えれば当たり前ですね。
わからないころは、自分の気持ちを入れて判断しているつもり(これを自力というのですね)はなかったのですが、その状態が自分ではわかりませんでした。
ことり 2012.04.06 23:13 編集
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