続けていくのはしんどいと思っていたけど、真実を求めるには仕方ないことと諦めていました。
難中の難と聞かされていたから、苦しいこともなかなか信心決定できないことも当たり前だと思っていました。
しかし、難しと言われているのは信を得るまでの心の道程であって、それと活動の苦しさとは全く無関係です。
私が一番辛かったのは家族との折り合いでしたが、反対されながら毎月富山に行くという苦しさは富山でしか説法が開かれないというS会側の事情によるものであって、本来の信を求める辛さとは別のもののはずです。
本当にみんなに信ととってもらいたい、仏法を広めたいというなら、説法ビデオをみんなに貸し出したり、地元で講師が説法したり(以前はそうだったのでしょうが)方法はいくらでもあります。
また多額のお布施を出さなくてはいけないのが苦しいことと、信を得ることが難いのとは何の関係もありません。
ついでに言うなら、毎月地元の講演会のチラシを配るのもなんだか恥ずかしくて嫌いでした。
S会にいるからこそのしんどさを、求道の苦しさと履き違えているのです。
私はその苦しさゆえに、早く信心決定して活動から離れたいと思っていましたが、みんなにはその辛さがないのか疑問です。
実際活動が苦もなく出来てしまって疑問がわかないのか、縁がまだまだ尽きないのか、甚だ残念であり、歯がゆくも腹立たしくも思うのです。
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