「私でも他力信心は得られますか?」

2012.02.26(Sun)

『未分類』 Comment(7)Trackback(0)
こんなタイトル


思わず目を引くタイトルだと思います。

著者はカウンセラーの立場をとおして救いとは何かを書かれています。

病気で体が不自由になって生きる意味を無くしてしまったおじいさんがいました。

懸賞はがきをかくという小さな希望を見つけてからまた生きる力をとりもどすことができたのですが、ここでは真宗のお救いは出てきません。

状況が変わらないけど、心が変わったことによって救われたというお話です。

宗教的な救いに限らず、人が幸せになるのは状況や状態よりも心の有り様が深く関係しているのだなと思います。

後半に信心が得られないと悩む末期がんのお医者さんのことが書かれています。

この方は若いころからいろいろ遠くにも聴聞に行かれたり、ノートを何冊もとられていたりされたそうですが、どういう経緯で仏法をきかれ、信心を得たいと思われたのかはわかりません。

「不安と心配を離れた生き生きとした自分になりたいのに、凡夫のままで何一つ変わらないのなら聞く意味などないのではないのですか?」

確かな実感がないとそれでは救われたことにならないと訴えられる気持ちがよくわかります。

阿弥陀様やお浄土を身近に感じられないというお医者さんに、分子や素粒子の話をしながら絶対の平等ということを説明されるのですが、ちょっとこの部分は私にはよくわかりませんでした。

しかしこの会話のやりとりは具体的に書いてあって、一つの事例としてとても興味深く読みました。

自分に対する自信を捨てることを自力を捨てることと書かれています。

しかし、実生活では自尊感情は大切なもので、このバランスはどう受け止めるべきかよくわからないところです。

「現実の社会で健全に生きていくことの出来る人には、他力の信心も阿弥陀様の慈悲による救いも必要ないのです。ですからその教えを聞かされたとしても正しく受け止めることができず、ただ居直るような受け止め方になるのです。」

これまで健全で健やかな人生を歩まれたお医者さんは、自分の死を目前にして他力念仏を受け止める機が熟したと言われています。

周りを見渡してみましたが、家族に恵まれ幸せ一杯の友人、社会でバリバリと働く友人、とても話す機が熟してるとは思えないなあと思ってしまいました。

人というのは親の愛情で自尊感情をはぐくまれるように、自分はそのままでいいという根拠を自分の中にはもたない存在なのだそうです。

他力信心の教えは、他者に受け入れてもらうことで、「自分は生き続けてよい」と許された感情を持つ、人の心にそうような救いなのだなと思いました。

感覚的にお浄土や阿弥陀様に親しむことのできないお寺と無縁に生活してきた人(私などもそうでしたが)向けというか、現代的な印象の説かれ方だなと思いました。


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