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ナチュラル or アンナチュラル

2011.12.20(Tue)

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お寺は何のためにあるのですか

「お寺は何のためにあるのですか」

私のよく見させてもらっているブログの中の一つ、「お寺のオバサンのひとりごと」を書かれている方が出版されている本です。

http://blog.goo.ne.jp/housenji

最近のものかと思ったら、私がブログを読む数年前にすでに出版されていました。

世間一般に思われているお寺への誤解を解いてもっと仏教を知ってもらうための内容ですが、私としては書かれているご本人に興味がありました。

仏教とは縁のなかった一般家庭から、浄土真宗のお寺にお嫁入りをされた方で、僧侶にもなられています。

しかし、初めのころはお念仏をされる旦那様を「オジンくさい」と思い、何が浄土かと反発を感じていたそうです。

そういう方がどのようにして仏教の教えを喜ばれていくのか、その経緯がとても知りたいです。

仏法の話をしても変に思われないし周りの人にも自然に広めることもできそうで、お寺の方はいいなと思うことがあります。

私は日々の生活と仏法とにギャップを感じることがしばしばですが、そういうことも少なそうに思えます。

私のように特殊な縁で遇うか、それともお寺とナチュラルにご縁があるか、世の中にはこの二つしかありえないのでしょうか。
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遠く宿縁を慶ぶ

2010.09.25(Sat)

『本』 Comment(0)Trackback(0)
母方は浄土真宗でしたが形だけのようなもので、私の実家に仏壇があるわけでもなく、ましてお勤めなどされるような家庭ではありませんでした。

一緒に住んでいた祖母は「宗教」そのものが大嫌いで、知り合いの送ってくる「生長の家」などの冊子もとてもいやがっていました。私は、それを時々引っ張り出して読んでいましたが。。

無宗教の家なのに、床の間にはなぜか家族のみんなが「観音さま」と呼んでいる木像があって、いつも祖母は水をお供えして頂き物がある時も必ずそこにお供えしていました。

形からしてどちらかというと土産品のような、今思うと観音さまではないのではと思うのですが、訳もわからず何か大事な神聖な場所として感じていました。

中学生の頃、何か悩みがあった時、家の本棚にあった「スッタニバータ」を見つけて読もうと思ったことがありました。

悩みを解決する方法が仏教にあるのでは、と思った発想が今思うと不思議です。

ただ、八正道とか犀の角とか私には難しくてすぐに読むのを諦めてしまったのですが。。

会に出会ってなかったころを振り返っても、私はもともと宗教、仏教、救い、というものに関心があったのだなと思います。

いろんな縁をいただいて今の私があるのであり、ここまで来させて頂いて有り難いなぁと思います。

遠く宿縁を慶び深く感謝したいと思います。

南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。

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文字も言葉も変わっていないのですが

2010.06.13(Sun)

『本』 Comment(4)Trackback(0)
「お念仏のこころ」を読みました。

初めて読んだ時もとても感動しましたが、何度読み返しても有り難いなあと思います。

「名」と「号」にはどちらも自分を名のっていく意味があると書かれてあります。

「親子の名のり」とか「呼ばれている」とか、言葉では何度も聞いて知っていたけど、阿弥陀様がご自分の名を通して救いの成就したことをずっと告げてくださっていたのだと改めて思いました。

それをずっとただ一方的に告げられて、私には何も準備するものがいらなかったということのうれしさ、安堵感、有り難く思わずにはおあれません。

何が足りないのか、または何が邪魔しているのかと、自分の中で足すもの、引くものばかり考え続けていました。

本を読み返しても、今までお同行の方々に言われたことを思い返しても、こう書いてあったじゃないか、こう言われていたじゃないかと思うことばかりです。

文字にしてみればずっと同じ内容なのにどうして今まで気づかなかったのだろうと思うことがあります。

不思議にも思い、またうれしくも思うのです。

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思案の頂上

2010.01.14(Thu)

『本』 Comment(0)Trackback(0)
「蓮如上人御一代記聞書」【二四四】

「思案の頂上と申すべきは弥陀如来の五劫思惟の本願に過ぎたることはなし。このご思案の道理に同心せば仏になるべし。同心申すとて別になし。機法一体の道理なり」と云々。

「思案のきわまりというべきは、五劫の間思いをめぐらしておたてになった阿弥陀如来の本願であり、これを超えるものはない。弥陀如来のこのご思案のおもむきを心にうけとれば、どんな人でも必ず仏になるのである。心に受け取るといっても他でもない。「われにまかせよ、必ずすくう」という機法一体の名号のいわれを疑いなく信じることである」と仰せになりました。(蓮如上人御一代記聞書<現代語版>)


あらためてそうだなあと思いました。

私が何を考えたり思ったりしたところで、阿弥陀仏の五劫の思惟に及ぶはずはなく・・。

阿弥陀さまが遠い遠い昔に私の代わりに考え抜いて、私を救う手だてを作ってくださったのに、私が何を今更どうこう考えることがあるのでしょうか。

それでいったい何を足せるというのでしょうか。

それで何が変われるというのでしょうか。

阿弥陀さまといくら知恵比べをしても勝ちようがないのに・・。

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「妙に捨て去られます」

2010.01.06(Wed)

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加茂仰順さん「真宗の信心」より

「本願のご威徳なればこそ私の我執を破って下さいます。み親に計られると、普通ではすてることの出来ない計らいが妙に捨て去られます。」(p.282)


我執の強さを感じて辛くなることがあります。

普段の生活の中でも、本心では全て自分の思い通りに人も物事も動いていくことを望み、周りのことや自分のことを客観的に見たつもりでも、実際の場面となるとどうにも譲れない自分中心の心を感じることがよくあります。

自分の中からしか見たり思うことは出てきません。

仏法に向かえば、ハッキリしたい、しっかりした心を持ちたい、ああなりたいという気持ちばかりです。

この心はいくらあっても仕方ないし意味がないと書いてあったり言われたりして、私もなんとなくわかる気もするけれど、だからといってこれが自分でどうにかなるのかという気もします。

思っているのは私で、それを棄てるのも自分で、いや、もう自分で棄てなくていいのかな??

棄てれないものに対してがんばってみても、意味ないよなぁ。。。



「妙に捨て去られます」という言葉は何か心が軽くなるように思えたのであげて見ました。




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