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命に対する葛藤はないのか?

2019.01.14(Mon)

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ある時仕事場で、お肉の話題になって、2人の人としゃべっていました。

その時ふと私が「ラム肉は子羊だからなんとなく胸が痛む」と言った後の会話です。



A子「はぁぁ?!命がかわいそうってこと?そんなこという人、これまで聞いたことない!初めて聞いた!」

B男「人間は食物連鎖の頂点だからいいんですよ。もし人間より強い生物がいたら人間が食べ物になるってだけです。」

A子「かわいそうって言ってもその動物だって、それまで生き物を食べてるんだからお互い様でしょ!」

B男「じゃあ活け作りとかもっと無理ですか?え?あれ生きてるわけないでしょ、もう死んじゃってるけど身体だけ反応してるってだけですよ」

A子「何十年生きてきて、まだそんなこと考えてたの?旦那にも聞いてみなよ、絶対おかしいっていうから!」

B男「かわいそうっていうなら、タラコとか数の子とかどうなるんです?」



2人から思いもかけない壮絶なリアクションをされて、まったく対等な会話になりませんでした。

私としては多少なりとも生き物の命を奪っていることに対する罪悪感をわかってもらえると思ったのですが、まったくかみ合わないのです。

この2人の反応からすると、本当にこれまで一瞬たりともそういうことを考えたことがなさそうに思え、それが逆に不思議でもあり
恐ろしくも感じました。

家畜に限らず、弱い者に対する憐憫の情、他者への共感能力というものが完全に欠落した人達なのではないかという疑念も浮かびました。




まともに反論することを諦め「はあ~何たることか、地獄もむべなるかな」と私は思ったのですが、「いやひょっとしてこの人達は自分の姿をありのまま受けいれているのであり、多少の罪悪感で自分の罪をごまかそうとしている自分こそが偽善者なのではないか」とアニメ②の親鸞聖人のようなことを思ったりもし、とても複雑な気持ちになりました。

一切何の感情もいれずただ食べ物としてうまいうまいと言えることが、腹立たしいような、かえってうらやましいような気もします。

野生動物のように弱肉強食と割り切っている世界の方が、そこに罪が存在してないのではないかと思うこともあります。


ラム肉に関して胸が痛むのは、出荷されるまでの過酷な環境を本で読んだことがあるからです。

また生後数週間で命を奪われるという残酷さを思うとやはり手放しで「うまい、うまい」と喜ぶ気にもなれません。

もちろん他の畜産動物に対しても、罪悪感を感じずにはおれません。


やはり私としては偽善と思われても葛藤をする人の方が好きです。

ビートたけしさんが著書の中で、命を奪っている食肉に対して「うまいのまずいのと言えない」と書いておられており、とても共感を覚えたことがあります。


ちなみに夫は小エビを飼育しているので、海老を食べることに抵抗が生まれるようになったといっていました。

そういう感覚はとても大事なことに思えるのです。




この2人がたまたまであったことを望みますが、今回のことでひょっとして罪の意識を感じてる人は私が想像するよりずっと少数派なのではと思ってしまいました。

だとしたらとても残念で恐ろしいことです。



上から目線な言い方になりますが、、なんだかあまりに衝撃と腹立たしさを覚えて書いてしまいました。







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不思議な行事 

2019.01.10(Thu)

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新年明けましておめでとうございます。

更新がどんどん遅くなっているブログですが、何か思いついた折には書いていきたいと思います。


今年も例年通り夫の実家の近所で初詣をしました。

よく西新井大師にも行きますが、こちらはあまりに人出が多く、時間もなかった時なので諦めました。

会員だったころは神社に初詣には一緒にいくけど、自分はお参りはしないで離れたところで待っていました。

今は普通に鈴を鳴らしたりお賽銭を投げることもあります。

三が日中は活気もあってなんとなく気分も高揚し、心新たな気持ちになります。



ただ、お参りはするもののお願いごとをするというのが違和感があってできません。

いつも心の中で「なむあみだぶつ」とお念仏をするか「こんにちは」と挨拶をしてみるだけです。

真宗としてというより、自分の中で納得ができなくてお願いごとをする気になれません。



1年に一回適当に小銭を投げてお参りしただけでお願いを聞いてもらうなんて、都合が良すぎだな~と思ってしまいます。

私自身叶えたい願いもあって、効果があるなら真剣にお願いしたいくらいなのですが、「そんなわけないよね」と白けた気持ちになる自分がいるのです。

お願いごとをするには自分の住所も言わないといけないという話も聞きますが、神様は住所がないと私がどこにいるかわからないのも変だなと思います。

おみくじには凶とか平気で入ってるし、お守りとかお札とか粗末にしたら罰が当たりそうだし、神様はなんか怖いイメージもあります。



まああまり突き詰めて考える人もいないとは思うのですが、みんな何を根拠にお願いをしているのか不思議なのです。

そもそも神様はいる前提なのかよくわかりません。

みんな自分に対する決意表明のようなものなのでしょうか。

真宗としても、神様はいるけどお参りしちゃダメという立場なのか、いないからやっても無意味という立場なのかもよくわかっていません。



以前ある布教師の方に神社を通るときはどうしてるか聞いたことがあるけど、

「あんたは人の前を通るときも挨拶しないんか」と返され、ご自身はどうされてるかは答えていただけませんでした。

その返答から察するに、神様はいる前提で、頼ることはないけど挨拶くらいはするという立場なのかなと思いました。

無視されて怒るとしたら、やっぱり神様は怖いなと思ってしまいました。



そんなに怖くて面倒くさそうな相手ならやっぱり初詣なんか行かない方がいいんじゃないかという結論にもなりそうです。



新年そうそうに久しぶりに更新したわりにこんな内容でよかったのかわかりませんが、本年もどうぞよろしくお願いいたします。








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祝!

2018.05.23(Wed)

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本日で安心問答さまが10周年ということを知り、勝手にお祝いさせていただきました。

10年一昔と言いますが、私自身のことを振り返れば迷いの真っ只中だったこの頃のことは何かもう距離を置いてみられるというか、棚にしまったものを時々だして眺めているような感覚です。

ブログとはもともと自分の意見を一方的に書いていくものだと思いますが、安心問答さまは質問に回答するという基本的に発信側が受け手になっているのが特徴的だと思います。

このような形式のものはジャンル問わず、他にはあまりないのではないでしょうか。

また、この10年間多くの方が質問を寄せ続けられていたというのも、すごいと思います。

先ほど初期のころの質問を見返してみたのですが、このころはS会に由来する質問が多いですね。

私自身も、会を信じていいのかとても揺らいでいたころです。

多くの質問が超真面目で素敵すぎると思いました。

自分の人生と後生に真剣に向き合おうとする姿に感動を覚えます。

これからも、迷いの人の拠り所として、お同行をつなぐ架け橋として、ずっと続けていっていただきたいと思います。

これからもどうぞよろしくお願いいたします。

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平成妙好人伝を作って欲しい

2018.05.21(Mon)

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妙好人の話は、たいてい江戸時代だったり明治のころの話ばかりのように感じます。

近年で妙好人の話を集めてまとめようと思った方はおられなかったのでしょうか。

昔の妙好人はみんな素朴で素直すぎるというかちょっと昔話のようにも感じ、身近に思えるかというと微妙なところはあります。

エピソードも極端なものがあったり、これを信を獲った人の全てと思っては偏りすぎるような印象もあります。


平成になってもう30年も経ち、それも残すところあと1年となりました。

そろそろ過去ではなくリアルタイムな妙好人話が出てきてほしいですが、

現代ではインパクト強めの逸話はなかなかなさそうな気もします。

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オリンピックを見て

2018.03.04(Sun)

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今回のソチオリンピックは本当にメダルラッシュで多くの感動をもらいました。

フィギュアスケートの男子で金、銀と日本人の選手がメダルを取る日が来るとは思っても見ませんでした。

銅メダルを獲得した高梨選手は本人としてはがっかりしているのではと思ってしまったのですが、表彰台の上で一番笑顔で飛び跳ねている彼女をみて、ほっとしてうれしく思うと同時に彼女が背負っていたものの大きさを感じ涙が止まりませんでした。

メダルが期待される選手にかかる重圧を思うと、残酷というか厳しい世界だなあとつくづく思います。


多くの選手のみなさんはこの4年間寝ても冷めてもオリンピックのことだけを考えて努力の日々を過ごしていたのだろうと思いますが、とてもそんな努力はできないにしても、気持ちだけはそれくらいもってないと信心決定できないと思っていました。

臥薪嘗胆の思いで努力し、信心決定とは超狭き門をくぐることだと思っていました。

蓮如上人の「その寵を水につけよ」のお言葉は、目に入るもの、耳に聞こえるもの全てを仏法に関するもので常に埋め尽くすくらいにしないと信心は獲れないと理解していました。

会にいるとどうしても、自分の聞き方がいけない、真剣さが足りない、聴聞の回数が足りない、お布施の額が足りないなど、自分を責める思考になります。

すでに自分を受けいれてくださっている阿弥陀様にはまったく心は向きません。

私も何度となく阿弥陀様に向くよう、仰ぐよう言われましたが、その意味が理解できませんでした。

仰いだところでこちらからお願いを出来るのものではないし、阿弥陀様に認めてもらえるまで自分一人で頑張らないといけないと思っていたので、「こんなに苦しいのにまだダメなんですか」という気持ちでした。

今もこのような気持ちで会員を続けている方は多いと思いますが、信心を獲るということは阿弥陀様に背をむけて一人で頑張ることではありません。

また頑張った褒美として信心をいただくものでもありません。

オリンピックでは一番高い表彰台に上るのは大変な努力と才能が必要ですが、御信心でいうと今自分のいるところがすでに表彰台の上です。

段差がないのでわかりにくいだけなのです。

自分はこんなに頑張ったのに、結局みんなと一緒ではつまらないと思う人もいるかもしれませんが、全ての人を救うお誓いを立ててくださった阿弥陀様なのだから、それは当然なのです。

広大なお慈悲とはそういうことなのだと思います。




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