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袈裟まで憎くてもお慈悲は広大

2019.07.28(Sun)

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歎異抄第6条の法座をお聞きしました。

親鸞聖人はご門徒やお弟子さん達を上下の関係性ではなく、ともに阿弥陀仏にお仕えする行者として見られ、縄張り意識や門徒争いを戒められました。

また口伝鈔の信楽房のエピソードでもお互い如来のお弟子という立場をとられています。

私達は阿弥陀様から100%受身で救われた身なので、その点においては誰もが平等で、お互いに口出しできるような立場にはありません。

ですが優劣を求めたり上から目線になってしまったり世間事のように感情が動いてしまう時があります。



信楽坊はどういうところで親鸞聖人の教えが合わないと思って出て行ったのか記録はあるのか先生にお聞きしましたが、詳しくはわかっていない、とのことでした。

ただお聖教を持っていこうとしているので、お念仏の教えとかけ離れたようなものではなかっただろうということでした。

親鸞聖人ほどの方に教えを乞うていながら出て行くのも不可解に思いますが、そうだとすると一層不思議で、大きな違いがなくても出て行かないといけないほどの対立を生まれてしまうものなのかなと思いました。

教学が盛んだった江戸時代には幕府が仲裁に入るほどの大きな論争もあったし、現在の本願寺内でもやはり対立する派もあるそうで時代が変わってもそこら辺フクザツなんだなと思いました。



先生ご自身もその対立問題に巻き込まれたこともあるようで「あそこは憎みあってますからね・・」としみじみ言われた時は吹き出してしまいました。

対立している内容としては、「あるある」な気もしますが大雑把にいって信後の変化の有無ということのようでした。

救われてもなんら自分自身は変わらないというのもそうだと思うし、お慈悲を知らされているのだから変わる部分があると言いたくなるのもわかるし、また実際そう感じている人もおられると思うし、私には天と地ほどの違いには思えませんでした。


どっちもよくわかると私が言うと、先生は「それぞれの主張をいうべき時と場面が違うということ」と言われました。

どちらかを強調しすぎたり偏りすぎるのがよくないのであり、またその場の聞き手にもよっても受け取り方は違ってくるのだろうなと思いました。


どちらの派閥でも救われる人はいると思うのにお慈悲をときながら憎むほど対立してしまうなんて、人の心は複雑でますます阿弥陀仏のお慈悲を広大に感じました。





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近所の布教所にいきました。

2019.07.03(Wed)

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最寄り駅に小さな布教所があります。

若いご住職さん夫婦がこじんまりとされている印象です。

まだ2回目ですが、先日法話に出かけてきました。



ご住職さんの実家はお寺で幼稚園も経営されていたそうです。

朝みんなが登園する前にストーブをつけてまわる仕事があるのですが、子供だったご住職さんはそれが楽しくて毎朝ストーブをつけて回っていました。

ある日、寝坊をしてストーブをつけることができなかった朝に、園長のおじいさんから「今朝はみんな寒いといっていたよ」と言われ、ご住職さんは毎朝自分は楽しみでやっていたことが、実はみんなの役に立っていたんだなと気付かれたそうです。

お念仏もこれと同じで、意味がわからなくても阿弥陀様のお手伝いをしてお念仏にお仕えさせていただいていることになる、と言われました。

世の中に理解出来なくても出来ていることもあるし、理解的出来ても実際は出来ないこともあります。

あるご住職と門徒さんのやりとりですが、「阿弥陀様の話ではなくもっと、わかり易い話を聞かせてほしい」と、門徒さんが他で聞かれた法話を話してくれたことがあったそうです。

それは「気は長く 心は丸く 腹はたてず 己は小さく」という内容でした。

人としてあるべき理想だしできればそう有りたいと思いますが、実際これを実践することはとても難しいことです。

次からはそうしようと思っていても、次がない時がきたらいくらがんばろうとしても絶望しかありません。

世間の話の前にお浄土の話を聞いていただきたい、大事なことを先送りしていないでしょうかと問われました。

(この話は真宗の法話として鉄板ネタなのか、どなたか他のお寺のブログでも書かれていました。)



失敗するなと応援されても、出来ないこともあります。

阿弥陀様はあなたが心配だから、とそばに居続けてくれます。

嘆くしかない状況の時も内側から声となって現れ、一人ではないよと言われています。


ご住職さんは僧侶になりたてのころ、広島別院に勤められ冊子の制作をされていました。

ある日入稿の確認ミスで全て刷り直しという大失敗をしてしまいました。

先輩にはひどく怒られてとても落ち込んでいたそうですが、その日の夕方お兄さんから連絡がありました。

お兄さんも同じく僧侶をされているのですが、ある地域を教えてほしいということで車で街を回ることになりました。

本来ならお兄さん一人でもわかるようなことで、初めは自分が連れ出されたことを不審に思われていました。

車で取りとめもない話をしてしばらくの時間を過ごすうちに、これはどこからか自分の大失敗を聞きつけた兄が、自分を心配してきてくれたんだと気付かれたそうです。

励ますでも慰めるでもなくただ一緒にいて寄り添ってくれたことが、ご住職さんはとてもうれしく感謝をされたそうです。



ご住職はメールなどで相談を受け付けられています。

精神のバランスを崩して一度に何十通も送られる方もおられるそうですが、御住職は根気強く返信を続けられています。

かなり重い内容のようで、この方には御住職とのやり取りが心の支えとなっているのでしょうが、寄り添い続けるというのもこんなにパワーのいることなんだなあと思いました。


私はただ寄り添い見守られるということが時にクールに思われ物足りなさを感じることがあったのですが、ここ最近その考えが改まるようなご縁をいただいている気がします。

何の判断もせずただ寄り添うことが、実はとても力を与えることにつながるんだなと思います。

カウンセリングや傾聴とも似ている気がします。



メモを見て思い出しつつ書いてみましたが、なんだかまとまりのない文章になってしまいました。

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自己肯定感を育むお慈悲(仮)

2019.06.30(Sun)

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「他力信心を実感するための法話」を読みました。


著者の和田真雄さんはカウンセラーもされているということで、生きる苦しみと仏教の教えとどう融合されているのか興味がありました。

支配的な父親から育てられた男性から「窮屈だけどその支配から抜け出すことも不安」と訴える相談を受けますが、このように生き方で苦しむ人にとって「ありのままで救われる」ことがどういう意味を持つのかを考えられます。


人間は言葉を得たことで独自の脳内世界を作るようになり、動物のように本能だけで生きられなくなってしまいました。

人間本来の生き方を失ったことを、著者は「虚無を背負った状態」といい、それを克服するためには、自己信頼の感覚がなくてはならないと説きます。

これは養育者によって育まれるものであり、最近よく聞かれる自己肯定感ともいえると思います。

著者は自己信頼という基準から1.自信家・2.楽天家・3.努力家・4.虚無を背負う人、という4パターンの人物像をあげます。

1~3の人は自分の中に生きる根拠を見出し、自分の感性によって自分らしい生き方のできる、虚無を克服した人です。


4の虚無を背負う人の例としては、かなり自分に思い当たることばかりでした。

自分の感性に不信感があり、何か思いついても行動に移せない、何をするにしても自分の中に判断の根拠を持てない・・などなど。
(当てはまってないのはせいぜい「自分の服も自分で買えない」ということくらいでした。)

このような本質的な虚無を背負った人の心は他力の信心で救われるのかとても興味がありました。



結論としては、凡夫の心に起る迷いや不審や愚痴の心を大慈悲心で受け止められることで、自己信頼の気持ちが回復する、という内容でした。

赤ん坊が養育者に共感されることで自分を肯定していくように、阿弥陀様に全ての心を「それが凡夫なんだよ」と受けいれてもらうことで自己信頼の心を開いていく、というものです。

阿弥陀様との関係は親子にたとえられるし、他者に受けいれてもらえることで自分自身を受けいれることができるということもわかります。



でも、初めに出てきた相談者は、この感覚で生きる不安感を拭えたのだろうかと疑問にも思いました。

自分自身を振り返っても、大慈悲心を感じることで自己信頼の気持ちが回復できたかと問われれば、うーむと考え込んでしまいます。

未だに著者のいうところの「虚無を背負った」ままだし、自分はこれでいいという感覚も曖昧なままです。


なんとなく予想のついた話で、ちょっとがっかりした気持ちを感じつつ読み進めていたら、「『ありのまま』の感性を素直に生きていくことが、世間から評価される生き方なのか周りから嫌われる生き方になるかは業縁によって変わるが、それも阿弥陀様の摂取不捨の中と受け止め、自分の『ありのまま』をしっかり意識して生ききるのが『凡夫が凡夫として生きる』という現実的な姿」ともありました。

これを読んだ時に何かはっと気付くところがあるというか、心が救われた感覚になりました。

自分はこうしか生きられないのだから仕方ないというような開き直りというか、心が軽くなるような気持ちになりました。

語弊のある言い方だけど、「ちゃんとした人生でなくてもよかったんだ」と思いました。



周りを見ればこうあるべきという情報で溢れて否応なくそれと比べさせられてしまうけど、その基準のない世界にいたらどんなに心が安らかだろうと思います。

急に自分に自信が持てるようにはならないにしても、阿弥陀様にはダメ出しされてないと繰り返し思うことで、薄皮をむくようにでも心は回復していけるのではないかと思いました。

私は私のままで生ききるしかないんだし、自分で自分にダメ出しするのもやめようと思いました。
もっと言えば、そう思っても結局ダメ出しをする自分も許そうと思いました。




信後の変化については、これからも私のテーマです。

その時々で思うことを細かく見続けていきたいと思います。




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「帰る」の考察

2019.03.29(Fri)

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子供のころ、法事の際に「旅というのは帰る家があるから楽しい。帰る場所がなかったら不安で仕方がない旅になる」という内容の法話を聞きました。

母や祖母はいたく感動していましたが、私はあまりピンとこないで「当たり前のことを言っているなあ」という感想しか思い浮かびませんでした。

さらに会員時代には、「真宗なのに信心や阿弥陀様の話もされなかったただの世間話」として振り返り、これだからお坊さんはダメなんだ、と思っていました。

(子供のころの記憶なので、ひょっとしたら本当はお浄土の話もあったのかもしれません。)

今味わってみると「帰るお浄土があるから人生はそのまま家への旅路となり、だから安心できるのだ」ととても有り難い話に感じられます。

唯信鈔文意で「来」は「かへる」と解説されていますが、「帰」をネットで検索してみると

1.本来の位置へもどる。かえる。かえす。(帰還・帰宅・帰省・復帰など。)

2.あるべきところへ行く。おさまる。おもむく。よりしたがう。(帰属・帰依・帰命など。)

とありました。



普段当たり前のように使っている言葉なのに、意味を良く知るとまるで法語のように有り難く思えます。

「いらっしゃい」も「お帰りなさい」も人を迎え入れる言葉ですが、そこは新しい場所なのか、自分がもといた場所なのかという違いがあります。

「お帰りなさい」には「あなたはもともと私達の仲間だよ、本来あなたのいる場所はここなんだよ」という意味が含まれ、すでに帰属していて、自分もその一部であるという安心感があります。

もう根無し草でもなく、迷いの衆生でもなく、あなたはお浄土に帰って来るんですよ、と言われていると思うと、心が温かな気持ちになります。



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ご報告と反省・・

2019.02.26(Tue)

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先日ここにあげていたLINEスタンプですが・・

URLを載せたかいあってか、早くもリジェクトされてしまいました。。

理由は以下の通りです。


「申請されたスタンプは、以下の審査ガイドラインの項目に該当いたします。

 対象:スタンプ全体

 3.12.宗教、文化、民族性、国民性を攻撃し、または特に不快感を与えるもの」




リジェクトそのものよりもこの文言になんだか凹みました。

作る前に一応仏教的なスタンプを調べて、これならいけそうだと思っていたのですが、

私の認識がずれていたようです。



これまで阿弥陀様や信心がどうのと書いておきながら、

作ったものが「宗教を攻撃し不快感を与える」ものに該当してしまうなんて、

バチが当たるとはこのことかという恥ずかしい気持ちで一杯になってしまいました。


デリケートなことなのに、自由に描きすぎました。

本来の仏さまなら言われないセリフだし・・そもそもネコじゃないし・・・。

海外も含めた不特定多数の方の目に触れるものなので、もっとよく考えるべきでした。



仏さまは善悪とわれてないから大丈夫、と自分を慰めてみても、

そこに甘えすぎてるから謗法罪みたいになってるんではないかと思い返して落ち込みます。



信心がわからないと必死だったころにこんな絵を描いただろうかというと、おそらく描いてないでしょう。

以前に比べて今は法にふれたり求めたりする心も感度も減っています。

なんだか今の自分と法との関係を表してしまったような、思わぬ結果に終わりました。

本当に大反省です。



ただ描くのは楽しかったので、しばらくしたら別の何かを作ってみることにします。


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